last updated 1997/08/09
第86話(全130話)
星の船(1/4)
6 星の船
嵐を真っ向から貫くようにして、トライポッドは暴風雨の向こう側へと飛び出した。振り返
ると、雷雲が見る見る水平線の彼方に遠ざかって行く。ピートは、自分たちがあの水平線の向
こうにいたのだと思い、信じられないと首を振る。きっと、宇宙飛行士が月から地球を見上げ
た時も、こんな気分になるのだろう。あのちいさな星の片隅で、あくせくと汗を流し、悲しん
だり怒ったり、悩んだりしていたのか。何てちいさいんだろう。何て莫迦莫迦しいんだろう。
自分がひとりどんなに悩んだって、この星の圧倒的な存在感の前には意味を失うのに。どうせ
この美しい星に生きるのなら、せめていつも笑っていれば良かった。つまらないことに腹を立
てずに、もっと周りにやさしくすれば良かった。もっと周りのすべてを愛せば良かった。そう
するほうが、ずっとこの星の住人として相応しい。宇宙飛行士たちは地球を見下ろしてそんな
ふうに思うのだろう。同じようにピートは嵐の渦巻く水平線をみつめながら、あんな遠くのち
いさな点の中で、絶望したり、嘆いたり、すべてを自分のせいだと責めたりしていたんだ。そ
んなふうに自分を苛めたって何も変わりはしなかったのに。どうせなら、もっと楽しむべきだ
った。悩んだりしている閑があったら、もっと早くマリカのために海底のそのまた奥へと潜っ
てあげればよかった。何もしないでうじうじ悩んでても何の意味もなかった。悩むより行動す
べきだった。絶望的な状況だからこそ、楽観的に振る舞って、マリカを勇気付けてあげるべき
だった。
あとから思うのなら、誰だってパーフェクトな人生を生きられる。
ピートはそう自分に言った。
あの時ああすれば良かった、なんて言ったってはじまらない。次の時はこうすると思うほう
がずっといい。けれど、あんなひどい状況にもう一度巻き込まれるのは嫌だ。あの状況の再現
だけはゴメンだ。
思うピートの願いは聞き届けられた。だからもう筏の上でマリカを干乾しにするような試練
は与えられなかった。そうではなく、別の試練がピートとマリカを待ち受けていた。それは雷
鳴を轟かせる黒い雲ではなく、見上げる山のような圧倒的な巨体を伴って現れることになる。
はじめピートはそれを星空が降ってきたのだと思った。空からドサンと天の川の一部が落下し
てきて、それで目の前に聳えているのだと思った。
「何あれ?」
ピートは思わず声を上げる。
星空が滝となって空から海へと降り注いでいた。流れる光が海へと落ち、海で弾ける。満天
の星が天から雪崩れ落ちてくる。圧倒的な光の滝が、トライポッドの前に立ちはだかっていた
。光に照り返された夜の海が昼のように明るくなった。いや、昼よりも美しい光の乱舞。きら
めきの粒子が盛大な水しぶきのように跳ね上がる。
〈空が落ちてきたんだ! 夜空に穴が開いて、お星さまがみんな落っこちてきちゃってるんだ
!〉
フィンフィンが叫び、ピートも唖然と光の洪水を見上げた。魚が海原を絨毯のように埋め尽
くすことがあるなら、星空が滝となって海に雪崩れ落ちることだってあるのかもしれない、と
その思考を停止した頭の片隅で思っていた。
「違うわ」
不意に背後で声がする。
振り返ると、厳しい顔をしたマリカが上体を起こして、星の滝を睨みつけていた。
「マリカ!」
「あれはケダックよ」
「ケダック?」
〈ケダックだって? ケダックって星空の向こうから落ちてくるの?〉
「違うわよ、よく見て。あれはケダックの軍艦よ」
「軍艦って・・、船?」
ピートはもう一度、光の滝を見た。それはもう、すぐ目の前に聳えていた。光に照らされて
ピートたちは太陽の中に飛び込んだかのような閃光の中に浮かんでいるようだった。
しかしその光の向こうを透かし見るようにして目を細めると、確かに、何か巨大な固まりが
海に浮いているのがわかった。周りの圧倒的な光の洪水が本体の姿を霞ませている。そんな感
じ。・・船? ピートは目を凝らす。やがてその巨大な固まりがゆっくりと向きを変えた。海
全体がぐるんと回りはじめたかのような錯覚に囚われる。あまりにも大きなものがゆっくりと
回転するので、海自体がそれに合わせて波を回しはじめたのだ。
「あ」
ピートは声を上げる。
マリカの言う通り。それは船だった。あまりにも大きいので星空の背景にある宇宙の闇と同
じように見えただけで、よくよく目を凝らせば、その闇には凹凸があり、窓があり、そして船
体の両側に大きな外輪がついているのが見えた。外輪船! ピートはそうとわかって、星空が
落ちてきたのと同じくらい驚愕する。
こんなにも大きな船なんてあるのだろうか? これだけの巨体を浮かばせて外洋に乗り出す
なんて、どれほどの燃料を使うのだろう。船体を覆うようにデコレートされた電蝕のイルミネ
ーションだけでも、町ひとつぶんの電力が必要だろう。
少し離れた所から見れば、それは水平線を彩る美しい船、というふうに見えるだろう。下手
な島よりも大きなその雄姿に「おお」と感嘆の声を上げ、惚れ惚れと見入ってしまうだろう。
しかし間近で見ると、美しさに感嘆するよりも、その巨大さに恐れが沸いてくる。畏怖、と
いう言葉はこんな気分を現す言葉なのだとはじめて納得できる。あまりの壮大さに触れると、
人は我知らず跪いてしまうものだ。その大きさに圧倒されて、押し潰されてしまうかのように
。自分の矮小さを恥じるように。
ピートも跪いた。腰が抜けた、というほうが正しいかもしれない。
(つづく)
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